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音楽的なるもの

さて、このことからわかりますように、自然のものは私たちに音楽的なるもののための土台を与えてはくれませんし、音楽的なるものそれ自体は人間の創造物である、ということは全く自明のことです。
音楽的なるものと言語を、その内的本性に注目して厳密に見ていくと、なぜ音楽的なるものが自然のものと隔たっているかということがわかります。
音楽的なるものは人間の自己創造的なものなのです。
そして自然を模倣しようなどということは、音楽的なるものの内においては過ちなのです。

既に申し上げましたように私は、例えば<森のささやき>や風のうなり声、泉の水のぴちゃぴちゃという音や<三月の小川>等に対して無理解に中傷したりするつもりはほんとうにありません。何とかしてこれらの事柄を批判しようなどという言うつもりは全くないのです。しかし、これらの背後には常に、音楽的なるものから外に出て行って何か音楽的でないものを取り込むことで音楽を豊かにしようという衝動があるのです。
どの芸術にもあらゆる方向へ拡がっていく可能性があるのですから、場合によってはこのことがとても好ましく受け入れられるでしょう。
ただ、オイリュトミーの使命は、音楽的なるものをそれ自身既にそうであるよりもさらに音楽的に取り扱うことなのです。
それ故、純粋に音楽的でないものを正しくオイリュトミーで表現しようとすると、私たちは救いのない困難にぶつかってしまうでしょう。
(「見える歌としてのオイリュトミー」R.シュタイナー 訳:松山由紀 涼風書林 p-86より)
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やっぱりね~、今の世の中「器用な人」が偉大な芸術家と間違えられやすいし、時代の力でそう思わされてしまうし、どうしてもそっちに持って行かれそうになるし。。。心静かに見極める訓練しなきゃ。


# by mugonca | 2024-03-17 23:43 | Comments(0)

音楽的なるものとは何でしょうか。
音楽的なるものとは、聞こえないもののことです!
聞こえるものは、決して音楽的ではありません。従って、メロス内で響く二つの音の間の体験を、単に時間の経過の中での体験として受け取る時は、皆さんは何も聞いてはいないのです。
その時は音が鳴り響くのを聞いているだけだからです。音としては耳に聞こえないけれども二つの音と音の間で体験するもの、それが本当の意味での音楽です。
なぜならそれが、ここにおいて霊的なものだからです。
それに対してもう一方は、霊的なものの感覚上への現れなのです。

このことを通して、音楽の中に非常に際立ったこととして、人間の人格が、魂としての人間の人格が持ち込まれるのだということを、皆さん考えてみて下さい。というのは、音楽はその中で聞こえないものを重んずることができるようになればなれるほど、聞こえないものを重んずる為にのみ聞こえるものを使うようになればなるほど、魂のこもったものになるからです。
(「見える歌としてのオイリュトミー」R.シュタイナー 訳:松山由紀 涼風書林 p-58,59より)
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ことば面(言葉づら)、音面(おとづら)、形姿、学歴、家柄、資産、など 表面的で実を感じないものが巷をベトベト~っと蔓延していますが、みんな、どうしても、それに持って行かれちゃうんだよな~。(僕も(´・ω・`))。。
これらの圧力を、撥ね除ける洞察力が求められます。

# by mugonca | 2024-02-26 23:17 | Comments(0)

代償

このように、アトランティス時代の初期は、今日とはまったく異なっていました。
・・・人間はまだ自己意識を持っていなかったのです。
・・・その当時の人間は集合魂に属していると感じていました。
体という殻のなかに入ったときはじめて、何か自分自身のものを有していると感じました。
人間が独立した人間になったということは、人間が自分の体のなかに入り込むことができたということです。
もちろん、自分のなかに入り込んだことによって、霊的世界が徐々に暗くなり、まったく遠ざかってしまったという代償を払わねばなりませんでした。
そのかわり、肉体のなかに入ったとき、下方に見た世界は明るく、明瞭なものになりました。それとともに、自分は一個の自我であり、自分はみずからのなかに一個の自己意識を担っているということが、徐々に明らかになってきました。
自分のことを「私」ということを学んだのです。
(「黙示録の秘密」R.シュタイナー 水声社 p-115~116より)
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小さいときから「こんな世界を押しつけられて、こんな惨めな状況に閉じ込められて・・・」と怨んでいました😴が、必要な代償だったのですね、なんとなくは解っていて予想はしていたのですが、はっきり示していただいて、シュタイナー博士に感謝です⚽。

# by mugonca | 2023-11-04 09:07 | 知覚・認識 | Comments(0)

死に生命を与え、死を霊化するというキリスト教的原則です。
死の中に落ちていくのではありません。
もし、死のなかに落ちていくなら、死は地上生活の果実が見いだされない霊的生命へと人を導く出来事になってしまいます。
人生から果実を得ることができなかった人を取り上げてみましょう。その人は霊的生命のなかに果実をたずさえていくことがありません。
この果実によってのみ、人は霊的存在のなかで生きることができるのです。
果実をたずさえていなければ、「第二の死」を体験します。
この地上に働きかけることによって、「第二の死」から救われるのです。
「耳のあるものは、霊が教区に語ることを聞くがよい。打ち勝つ者には、第二の死という苦悩は生じない」。
(「黙示録の秘密」R.シュタイナー 水声社 p-58 より)
《七つの教会への手紙---スミルナの教区》_d0393939_07195008.png
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➀行かず後家手前の娘が彼氏の家で半同棲を始めたらしく、家に居なくなった。
②骨付き肉を食んでいたら前歯が折れた、テナーが吹けなくなった。
➀+②・・・ますます、やることが無くなった。
恐ろしく暇で、人生に対して興味も気力も課題も無い。
幼少期より厭世感が強いのも大きい。
・・・そうか~、スミルナ教区はそういう意味なのか~、日々のこの地上の暮らしを謙虚に(身の丈を知って)こなしていかなければ☆と思った。


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# by mugonca | 2023-10-10 07:14 | Comments(0)

物資生活の奴隷

精神生活の力は何の為に使われたのでしょうか。
二つの石を使って穀物を擦りつぶすというわずかの精神力しか必要としない行為と、
アメリカに電報を打って大量の穀物を輸入し、すばらしい製粉機を使って小麦粉にするのとでは、精神生活にとって本質的な相違があるのでしょうか。
すべては胃のために活動しているのです。単なる物質的文化のなかに、どのように大量の精神生活の力が注ぎ込まれているかを明らかにしておきましょう。
精神文化は、外的な文化手段をとおしては、まだごく僅かしか促進されていません。人智学運動の事務においては、電信機はごくまれにしか使われていません。
物質文化の為に何が使用され、精神生活には何が役立つかを統計的に比較してみれば、精神が人間的なものの下に沈み、物資生活の奴隷になっているのがわかります。
(「黙示録の秘密」R.シュタイナー 水声社 p-53 より)
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新コロ騒動で・・・現代の見かけの便利の裏で、精神がビックリするくらい、立ち後れていることが露わになりました。
新コロ明けに・・・みなさんが「精神」を渇望していたこと・飢えていたことが、よくわかりました。

# by mugonca | 2023-10-03 22:17 | Comments(0)